2006年07月28日

「お見事!欽ちゃんの危機管理」

 欽ちゃんの記者会見を聞いて、思わず目頭が熱くなりました。
萩本欽一氏が率いる“茨城ゴールデンゴールズ”のメンバーの一人が不祥事を起こし、警察にお世話になったことで、何とチームを解散して世間にお詫びをするというものでした。
チームへの愛着はもちろん、「三度の飯よりも好き」という野球をやめるということは、よくよく考えた結果でしょうが、欽ちゃんが良くそこまで決断したと本当に感心しました。

 それにしても欽ちゃんの決断の早さと見事さは、とかく後を絶たない政治家や企業の危機管理と記者会見に比べたら、手本とも言うべきで、時には涙を浮かべての談話は聞く者に感動を与えました。
そこには、演技や打算は全くなく、欽ちゃんの人柄と人間性そのものに触れた思いでした。

折角苦労して作った野球チームを解散する!ということは、関係者にとっては強いショックであったでしょうが、欽ちゃんとその仲間がいかに野球を愛しているかが痛いようによく解ります。
特に、欽ちゃんが事件を起こしたお笑いタレントに愚痴一つ言わず、自らの責任を明らかにしたことで、そのメンバーのタレントにとっては、これ以上の辛く苦しい反省を求められたことはなかったのではないでしょうか。

 こんなに美しくて悲しいことを全国の野球ファンが放っておくはずがありません。
もう、その三日後にはチームの再開運動が盛り上がり、とうとう欽ちゃんもその世論に押されて、22日新潟において行われた試合中に、球場で解散の撤回を約束していました。
修まるところに修まったという「野球騒動」でした。
何よりも救われたのは、不祥事を起こした本人だったかも知れません。

 しかし、予期しないアクシデントや不祥事にどのように立ち向かうかが危機管理とすれば、“禍転じて福となす”“ピンチはチャンス”にした今回の欽ちゃんの一連の対応は、100点満点、いや120点をあげても良いのではないでしょうか。
おまけの20点は、暗いニュースの多い昨今、久しぶりに日本中を爽やかにしてくれたお礼と言ったら安いものですね。
欽ちゃん、ありがとう!

秋 鹿  博
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2006年06月19日

「遊び型総合スポーツ少年団」

 私たちの子供の頃は、どこにも空き地があって、いつも誰かが遊んでいました。
学校から帰るとカバンを家にそっと置いて、逃げるように空き地に向かって走ったものです。

なぜですって?

まごまごして見つかると親から用を言いつけられるからです。

 とにかく子供は、シクラメンの歌の台詞のように、どんなに遊んでも疲れを知りませんでした。
空き地へ行くと、もう何人かいて野球をしています。
しかも、人数に合わせてルールを自由自在に創意工夫して楽しむのです。
例えば、「ワンバン・ノーバン」。一人が打者になり、残る子供はグローブを持って守ります。
ピッチャーが投げ、打者が打ち、その打球をワンバウンドかノーバウンドで取った者が今度は打者となって打てるのです。
人数が多くなると、同じ位の子供同士がジャンケンをして、2チームに分かれて試合をします。
人数が9人ずついない場合は、三角ベースと言って一塁と三塁とし、二塁を省きます。
さらに少ない時は、キャッチャーを攻撃チームから出して捕ったりします。

 とにかく子供は遊びの天才で、四季の移り変わりや天候に合わせて大道具・小道具を使って様々な遊びを考えたものです。
しかも、その地域の子供は全員が参加しますから、野球が出来ない子はいないのです。
上手か下手か、好むか好まないかの差はあっても、年上の子供が年下の子供に教えますから、みんな出来るようになるのです。

この遊びには、大人は介在しません。
すべて子供同志でルールを決めて興じます。

 これに比べ、現代の子供たちと言えば、学校から帰ると塾通いかスポーツ少年団。
家の中では、テレビゲームやパソコン。大人以上に忙しいのです。
特にスポーツ少年団は、小学校低学年に入団する為、体の成長いじょうに練習が激しいと、ケガや障害を起こしやすいのです。
骨格や筋肉がまだ未発達の上に高度な技術を要求すれば、肩や肘、膝に負担がかかるのです。
加えて、昔の子供のように遊んでいないので、野球バカ・サッカーバカになりやすいのです。

私は子供会、ボーイスカウト、スポーツ少年団と全てを体験しましたので、その経験からすれば、「小学校の時は基礎体力をつける」ことに専念し、余り高度な技術を教えないこと、小学校の頃はどんな可能性や才能があるか解らないので、様々なスポーツを体験させること。
スポーツ医学を導入して、子供たちの成長に合わせて常に専門家のアドバイスを受けること。
その経験を生かして、中学に入ったら「自分の進むべきスポーツを選択する」ことではないでしょうか。
小学校の頃、素晴らしい活躍をしていながら中学校へ行って伸びないのは、小学校の時にやり過ぎて障害を起こしてしまうからです。

もうそろどろ、スポーツ少年団のあり方を見直してはどうでしょうか。
その一つの選択が、遊び型の「総合スポーツ少年団」ではないでしょうか。

秋 鹿  博
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2006年06月16日

「NHKはなぜ民営化しないのか」

 国も地方自治体も流行のように、民営化や指定管理者制度を導入している。
小泉内閣の命運を賭けて断行した郵政民営化ではあるが、不祥事続きであってもNHKの民営化は、小泉さんは指示していない。

 口癖のように「民営化できるものは民営化に」と言ってきたのになぜだろう。
それは、規制緩和でも、民営化でもやって良いものと、やってはいけないものがあるからだ。
本来、行政が直接運営していると、人件費などのコストがかかる割合に、成果が上がらない、条例にしばられ創意工夫が発揮されない等々の不合理が生じていたからだ。

 つまり、公共性と経済性のバランスの問題である。
富士宮市でも、市立体育館や市民プール等のスポーツ施設や市民文化会館、天母の湯等の施設が、指定管理者制度によって民営化されている。

 最も留意すべきは、管理する側の立場ではなく、利用する側の市民の立場にたっているかどうか。
サービスを向上させることが出来れば、それだけ利用者が増え、施設が活用され、経済性が高まり、その結果、委託費が抑えられ、市民の税金が軽減できることになる。

 NHKの日本放送協会の運営については、時々発生する不祥事に、国民は厳しい目で見ているが、放送の内容については、大方の理解と支持を得ているものと思う。
と言うのも、全部とは言わないが、民法の番組はますます低俗となり、国民の文化レベルを低下させ、青少年への影響に頭を痛めている国民は多いからだ。
 
 これに対し、NHKの番組は常に時代を先取りし、年代層や文化的趣向をを充分理解したバラエティに富む企画番組によって、どれだけ国民生活を豊かにしてきたか、芸術文化の向上に果たして役割は計り知れないものがある

 また、ドキュメンタリー番組や歴史探訪、野営の生態系、政治討論、プロジェクトX等の人気企画は、NHKならではの番組である。
 最も国民が誇りにしているのは、オリンピックや国際報道番組で、その映像技術・IT技術は常に世界の最高水準にあることだ。

 文字通り、国際社会への貢献と国民の公共の利益に合致していると確信できる。
しかも、税金を出来る限り使わないで、国民の受益者負担で経営していることに感謝している。
 これだけ充実した番組をわずか1ヶ月2,790円の受信料で家族全部で楽しめるのは本当に有り難い。
 もちろん、不祥事に対しては、その責任を明確にして、国民に解り易い対策と処分を行って、国民の信頼を大切にして欲しい。

 しかし、この事と「受信料」の未納とは本質的に問題が違う。
払うものは払って、その上で意見は述べて欲しいと思う。
なぜなら、大多数の国民はキチッと支払っているのであって、「正直者が馬鹿をみる」ようなことがあってはならないと思うからだ。

 このNHKの改革に、このほど竹中総務大臣の諮問委員会が提言をまとめた。
もちろん民営化ではなく、むしろ事業の削減で、民放の意見を反映したものになっている。
 注目する点は、受信料を義務化することと、地上テレビ放送がデジタル放送に完全移行する、2011年への技術革新とその対応である。
 いずれにしても、通信と放送の融合が加速することが考えられ、何よりも公共放送の公益性を尊重すべきで、民営化に繋がる子会社化には慎重であって欲しい。

 「三権分立」とは、司法・立法・行政を指し、その権力と権限が国民生活を守ると共に、圧迫しないよう三権がお互いを牽制し合い、行き過ぎを是正すり為にあるのだが、今やマスコミ権力が社会を動かしかねない「四権分立」の時代と言って良い。

マスコミ関係者は、「報道の自由・表現の自由」と、金科玉条のように言うが、それなら、自主規制や報道のモラルの向上に、もっと姿勢を正して努力して欲しい、と願うのは私だけではないと思う。

                                 秋 鹿  博
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2006年05月08日

「自由という“ま ぼ ろ し”」

 子供が親に叱られると、「だって私の自由でしょ」と口答えをする場合がよくありますね。
たしかに子供にも基本的人権があり、人として尊重されなければならないと思います。

 特に最近の児童虐待は一体なんだろうか、と考えさせられてしまいます。
核家族化の現象で、親もまだ精神的に大人に成長していないのではないか、子供同士で生活して孤立しているのでは、と思ってしまいます。

 少なくとも、成長するまでは親は子を育てる責任と義務がありますから、一人の子供を人として育てることは並大抵のことではないと思います。
ですから、時にはどうして良いのか解らない時もあるでしょう。
この意味では同情する余地は充分あります。

 さて、本当の自由とは、一人前の成人となって自分で考え自分で決断して、自分でその責任を全うするようになってこそ、「自由というものが得られる」のではないでしょうか。
ですから、成人前までは子供の「自由」などというものはないと考えた方がよいと思いますし、逆に言えば、それだけ親の責任は重いということになりますね。

 日本には昔から「人事を尽くして天命を待つ」という素晴らしい言葉があります。
スポーツ選手で言えば、鍛えて、鍛えて、あらゆる努力をした後に勝利の女神に祈るような心境を言うのではないでしょうか。

これに似た言葉に、「完全なる自由」「パーフェクト・リバティ」という含蓄ある言葉があります。
目的を達成するためには、あらゆる科学的な努力を積み重ね、人間がなすべきことを全て尽くした上で神に祈るというものです。

 この二つの言葉に共通している大切なことは、目的も自由も努力なしで与えられるものではなく、自らが勝ち得なければならないということです。
 「自由」と「平等」は、誰もが好きな耳障りの良い言葉ですが、「平和」と同じように、ただ訴えていたり、唱えていれば実現するものではないと思うのです。
 
 先日、感動を持って読んだベストセラー『国家の品格』のなかで、著者の藤原正彦氏は、「本来人間には自由奔放な自由というものはない、規則や規律の中にこそ真の自由がある」と名言しています。

 現在の日本社会の混迷は、この「自由」のはき違いによって、自分だけ良ければという利己的な自由がはびこり、逆に不自由な社会になってしまっていると指摘しています。

 このように、自由にしても平等にしても、これは「まぼろし」であって存在するものではない、と考えてみてはどうでしょうか。

 たしかによく考えてみると、この世の中には自分の都合の良い自由などは存在しないし、努力もしないのに平等に分配されるものは皆無と言っても間違いないのです。
 特に、成人前の子供達にこのことをしっかりと「言い聞かせる」必要があると思いますがいかがでしょうか。

 日本は、今までどちらかと言えば単一民族で構成していた為、性善説で人間の助け合いや協力などは、善意によって社会が成り立っていました。

 ところが、国内の中にも様々な考え方や激しい国際化の波にさらされてきますと、自由という概念が異なって、海外の国々のように最悪の状況を考えながら、「自らの生命は自らが守る」という性悪説の社会、厳しい社会に突入していることを、社会全体が自覚すべきです。

 私は与えられたものではなく、自らが努力し得たものには愛着が生まれ、感謝する心、有難味がわかるようになるのではないかと考えます。
 もちろん、「スパルタ教育」や「規律訓練」で人間が立派に育つとは思えませんが、ある一定の秩序・規律と言うものは必要だと思います。

 そして、自然の法則や物の道理、原理原則をしっかり身につけてこそ、時代のニーズや環境の変化に柔軟に対応出来るのではないでしょうか。

 拝金主義や成果主義ばかりでは、日本の文化も伝統も失ってしまうばかりか、「物で栄えて心で亡ぶ」ことになってしまうのではないかと憂う今日この頃です。


秋 鹿  博
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2006年04月21日

「若者のエネルギー」

 とうとうフランスの若者達は、政府の「若者雇用対策法案」を撤回に追い込みました。これは、学生を中心とした抗議行動に、シラク大統領やドビンパン首相が屈した形で、政府側の大失態となりました。

 法案の中味については様々な意見があり、双方の言い分にはそれぞれの立場や思惑があり、一概には言えませんが、私が感心、いや、驚いたことは、フランスの学生や青年達が立ち上がり、反対運動を起こし、徹底して抗議したことです。

 欧米に共通して言えることは、若者達が国の政治や政策に高い関心を持ち、政治を変えるエネルギーとバイタリティを持っていることです。
 また、政府や国会が間違った判断をしたならば、反対運動を起こし、止めさせることが出来るという民主主義に必要な緊張感を国内外に示した、と言っても良いと思います。

 比較すること自体どうかと思いますが、果たして日本ではこのような事が、起こり得るのでしょうか。
 かつての学生運動は、あの忌まわしい浅間山荘事件以来、鳴りを潜め、国民の記憶から忘れ去られようとしています。

 私は事の良し悪しは別として、若い人達が国家や社会の矛盾や不合理に対し、その正義感から腹を立てたり、抗議をすることは当然だと思っていますが、どうでしょうか。 
 
 いや、むしろ今の日本社会は、「自分さえ良ければ、人のことはどうでも良い」という風潮が横行して、世のため人のために、時には血や汗を流すことを忘れてしまい、緊張感に欠けていることが問題なのです。
 問題があった時、問題が指摘され、公の事であればそれが公開され、議論される方が健全であると考える方が正常ではないでしょうか。

 たしかに、現在の日本でそのような反対運動や抗議行動が起こらないのは、社会全体が世界の各国に比べ、「かなりうまくいっている」ということもあるかも知れませんが、本当にそうなのでしょうか。

 私には、むしろ戦後導入された民主主義の中の権利のみの「いいとこ取り」と、経済発展にによる「拝金主義」によって、日本人の心に、個人主義ならぬ利己主義がはびこり、「社会正義や義憤」「公共心や公徳心」が失われて、「自分以外のことに無関心」になっているような気がしてなりません。

 10年前に駅のホームで起きた殺人事件で、息子を失った父親が、今も犯人の手掛かりとなる情報を求めて、苦悩する姿をテレビで見て、誰か助ける人がいなかったのか、せめて駅員に知らせたり、110番に電話したりする人がいなかったのか、白昼、人ごみの中で行われた犯罪に、こうまで「見て見ぬふり」が出来るのか、加害者よりも無関心者の方に、何か重い恐ろしさを感じるのは私だけでしょうか。

 本来、日本人は社会道徳や規範を守り、清潔で義理人情に厚い、国民性を持っていたはずです。

 憲法の改正も教育基本法の改正も、政府間の取り引きや妥協ではなく、国民生活の原点と現実に、もっと目を向けた議論をして欲しいと願わずにはいられません。

                                 秋 鹿  博
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2006年04月19日

「街角でひろったあったか〜い話」

 野山も草木が躍動をはじめ、春らんまんの季節を迎えています。野山には色彩りどりの花が咲き乱れ、一年の中でも最も良い季節を迎えています。

  この行楽シーズンになりますと、健康づくりと隠れた史跡を訪ねての、『歩け歩け』が盛んになり、富士山周辺は、ウォーキングコースの宝庫と言っても良いと思います。

 浅間大社を中心とした市街地も城山公園も、潤井川沿いの散策道も、市民の皆さんに喜ばれているウォーキングコースの1つです。
特に、商店街を歩く老若男女がグループをつくって、歩いている姿は本当に微笑ましく、体力づくりとコミュニティづくり、そして、町の賑わいと一石三鳥の効果があるようです。

 先日、市街地を歩いているお年寄りに嬉しい話を聞きました。
それは、商店街に買い物に行ったり、散策をしていて一番困るのは、やはり「トイレ」の問題だと言います。

 ところが、神田通りで困っていると、
「買い物をしなくても、いつでも使って下さいね」
「のどが渇いたらこれを飲んで下さい」
と、お水やお茶を備えてあり、
「いつも店頭の周りを草花などで美しく飾りつけ、道行く人の心を和ませていて、私たち年寄りにとっては何よりありがたい」
と、しみじみと語ってくれました。
しかも、さりげないサラッとした態度にすっかり感心して嬉しくなったと言います。

 そして、「こんな店がもっともっと増えたら、私たちも苦にならないで街に出かける」と言うのです。

 考えてみると、トイレは「厄介物」ではなくて、人が生きて行く上で必ずお世話になる大切な場所であり。道の駅やコンビニでは、むしろトイレを貸すことを大いに活用しているのです。

 「損を見て得を見ろ」、人の為に尽くしてこそ町の賑わいも店の繁栄もあるのではないか、何か昔の人の「商人道の教え」をそのまま実践しているような素晴らしい話しではありませんか。

 超高齢化・少子化社会に突入した今、中心市街地はシルバーやシニアの皆さん、こどもたちが、安心して快適に暮らすことの出来る「ひとにやさしい、ユートピア」にしてはどうだろうか、と私は思います。

 先述したお店の主人のような考え方の経営者がひとり、ふたりと増えたなら、大型店に負けない商店街になると思います。

 よく考えると、市街地の持つ特典は、
@駅に近い
A買い物がしやすい
B街がキレイ
C安心して歩ける、
そして、何よりも
D人々が親切。
であることが、最も大切なことで、「ひとにやさしい、安心して楽しむまちづくり」は時代のニーズではないでしょうか?

高齢者やこどもたちだけでなく、観光客にとっても市民にとっても、先述した「もてなしの心」のお店がもっともっと増えたら、商店街に足を運んでくれる人はもっと増えるのではないでしょうか。

 秋 鹿  博



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2006年04月07日

「危機管理という視点から見た民主党」

 今、日本の社会は、政治・行政・経済団体、そして各企業において、道議に反する事件や不祥事が後を絶たない。
特に企業は、不祥事を起こした場合、社会的責任を問われ、売り上げは落ち込み、株価は低迷し、事業は縮小される。
その対応のまずさによっては、破綻の危機に瀕する場面も少なくない。

そこで、各企業はコンプライアンス(企業倫理と法令の順守)に常に配慮し、努力して行かなければならない。
なぜなら、この『危機管理』は不祥事を防止して、企業が生存して行くために、不可欠な問題だからである。

そして、仮に不祥事が起きた場合、この危機にどのように立ち向かって行くか、次の4つの原則があると言う。
すなわち、@隠さない、A説明する、B決断する、C対策を示す、そして、誠心誠意を持って謝罪することだ。

もちろん、政党と企業を同一視して語ることは出来ないが、今回の偽メール事件に右往左往した民主党のドタバタを、『危機管理』という視点で検証してみた。

 前原代表がメール問題の責任を取って辞任した。
しかも、執行部の総退陣という結党以来の危機と言っても過言ではない。
さらに、永田議員も辞職して全面的な敗北と言った感を否めない。
それなら何故もっと早く永田議員を辞めさせなかったのか、うやむやにした時間を経過させ、国会を空転させたことが、永田議員個人の失態にとどまらず、民主党の責任問題に発展して行ったのだ。
このような結果を招いた原因を、先述した『危機管理』の四原則に、当てはめて考えてみると解りやすい。

まず、@「隠さない」という点だが、最後まで情報提供者の西沢孝氏との関係を隠ぺいし続けた。
本当に虚偽でなければ、堂々と胸を張って自民党を追い込めたはずだ。
これだけでガセネタと言われても仕方ない。

次のA「説明する」であるが、国会でブチ上げておいて永田議員は雲隠れしてしまった。民主党を代表しての質問である以上、野田国対委員長であれ、鳩山幹事長であれ、党を代表する責任ある立場の者が、説得力のある説明をすべきである。
それが出来なかったゆえに、国民の疑惑の目が永田議員ではなく、民主党に向けられた。

Bの「決断する」点であるが、前原代表とそのブレーンだけで、ベテラン議員も含め民主党議員が真剣になって取り組んでいる姿が、国民の前に見えてこない。
むしろ、前原代表は孤立して、決断するのが一ヶ月以上も遅れてしまった。

Cの「対策を示す」であるが、@〜Bまでボタンの掛け違いをしてしまったために、
「さすが若い政党だ、潔い!」
といった、具体的な対策を示す事が出来なかった。
本来は、野党が、政府与党を追求することは当然で、その糾弾が結果として政治に緊張感を与え、改革・改善することが出来たなら、大きな意味で公共の利益に結びつくはずである。

この場合は、多少の国会の空転も国益のためならば国民も納得し許されるだろう。
今回のメール問題事件は、はっきり言って何の意味も公益もなく、ただ民主党の茶番劇に終わってしまい、「四点セット」と言われた、本来議論すべきはずの「重大問題」から国民の目をそらし、政府与党を結果として、擁護してしまったことへの損失は計り知れない。

また、小泉劇場で自民党を圧勝させたマスコミは、またしてもその本質を見抜く力量を失い、現象のみに振り回される報道姿勢を繰り返すことになり、その体質を改めて問われることになった。

 最後に、少し気がかりなのは、世代交代が進みつつある政界が、派閥政治にまた逆戻りしないかとの心配だ。
小泉首相は、次期総理・総裁の条件として、@決断力、A洞察力、B情熱の三点を挙げた。
前原代表に対しても、「これを良い経験として出直し、活躍して欲しい」と余裕とも取れる「労い」の言葉が印象的であった。

健全な、政権交代の可能な、二大政党時代を切り開く為にも、民主党の再建に期待したいと思う国民も少なくないとおもわれる。
今、新聞報道によれば、誰よりも自民党的な、小沢前副代表の名前が、全面に出ているようだ。
もっと民主党らしい、爽やかな人材はないのだろうか。
新鮮味がないばかりか、時計の針が後戻りしてしまうような、何か胸騒ぎがしてならない。


秋 鹿  博
posted by あきしか at 09:49| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月23日

自然からの警鐘「山は海の恋人」

 今年の冬は例年になく厳しかった為、桜の開花も1週間から2週間遅れるそうです。
大自然は美しい景観や天の恵みを人間に与えてくれますが、時には天災という厳しい試練を与え、人間社会に問題を投げかけます。

 私の一貫した思いは、「人間も自然の一部であって、人間だけの自然ではない」ということです。

 最近、野生動物のシカやイノシシ、サルなどが里山に下りて来て農作物を荒らしたり、クマに至っては人や民家を襲うなどの事件が頻繁に起きています。
もちろん人間社会から見れば、とんでもない物騒なことですから、有害鳥獣駆除を名目に、猟友会の人たちに依頼して撃ち殺したり、棚や金網を設けて進入を防いだりしています。

 また、カラス、ハトなどの鳥の被害に頭を痛め、いたちごっこの戦いを長年続けている地域もあります。
この対策は試行錯誤で苦労している割りには効果はなく、万策尽きたと嘆いている関係者も多いと聞きます。
そこで、百歩譲って動物や鳥の側に立って考えてみることも必要ではないでしょうか。

 まず考察してみたいのは、いつ頃からこのような現象が現れたかです。
明らかに言えることは、山に餌がない、食物が少ないことが最大の理由で、山が死んでいることです。

 かつて豊かで多彩な山々は、ブナやミズナラ、シイ、ドングル等の自然林に覆われ、草が繁り、実が連なり生物たちの生息をもたらし、枯葉や動物の排泄物は堆積して有機質の表土をつくり、この豊かな大地が微生物やミミズなどの鳥や昆虫の餌を生み、小動物を育て、この小動物を大動物が食べて、野生の掟が守られ大自然を築いて来たのです。
この植物連鎖による循環作用が緑豊かな山を育て、水源涵養や水害防止の保水力を保ち、人間社会の集落を守り、やがて下流の都市の生活を維持してきたのです。

 ところが、戦後焼土化した都市の再構築に大量な木材資源が必要となり、一斉に杉や桧を植えなければなりませんでした。
市民生活においても、その燃料は薪や炭、練炭ですべて原料はクルギ・ドングリ等の広葉樹などの木材でした。

ある日突然、台所にガスレンジが入ると循環していた自然林は、薪がお金にならなくなり、切り倒されて杉や桧林に変わったり、宅地になったりしました。
せっかく成木した杉や桧は筏期が来ても、高いコストと市場の安値からとても輸入材と競争も出来ず放置されているのです。

 先述の動物たちの里山への出現は、考え方によっては「山の神からの使い」ではないでしょうか。
人間社会への警告であり、猛省を促す何ものではないと考えるべきです。
水源の涵養と災害防止は、国・地方を問わず、何よりも優先されるべき公共事業です。
このように考えると、山林は最早個人の所有することには限界があり、山の管理についての発想を転換する以外にありません。

 最近、漁師の人達が山に木を植えています。
活きの良い魚は清流が注ぐ海に生息するからです。

また、都市の安全は村落や集落があってこそ守られているのです。
今こそ川上と川下、都市と農村が力を合わせなければなりません。

「山を守る」ことに、都市と川下の人たちが応分の負担をしてもらうことは、時代の趨勢であり、その制度を創設することが急務ではないでしょうか。

 「山は海の恋人」とは正にこのことなのです。

                                 秋 鹿  博
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2006年01月31日

「住民自治の原点」

 昔から「自治なし」という言葉があります。
最近はあまり聞かれませんが、地方によっては方言で、自分のことを自分で出来ない子供に向けて「このずつなし」などと「叱咤激励」を込めて言ったものです。
この「ずつなし」の語源はもちろん「自治なし」からきているようです。
少子化によって子供を大切にする余り、親がなんでもしてしまうので、子供たちは自分から進んでやることが少なくなっています。
自分の意志をしっかり持って、自分で判断することの出来ない子供たちが増えているような気がします。

 いやいや、どうもこの傾向は子供たちだけでなく、大人の世界でも言えそうです。
例えば、市町村合併をするかしないかは首長のリーダーシップに依るところが大きく、首長がまず自分のビジョンを持つことを前提に地方自治法は出来ているのです。
そして、首長の提案を受けて、議会が審議して方向を決定する権限が与えられているのです。
もちろん、この際には5年後・10年後のこの町の将来のあり方と、住民一人ひとりがどのような思いや考え方に立っているかを把握して、慎重にていねいに取り組んで行かなければなりません。

 ところが、混迷している自治体では行政側と議会側がうまく噛み合わず、それぞれ使命を果たしていないように見受けられます。
しかも、自分の考えを示さないで住民投票で民意を聞くと言えば、より民主的に聞こえるかも知れませんが、これはパフォーマンスに過ぎず体のいい責任転嫁です。
たしかに、このような時代のトップは大変とは思いますが、「このようにしたいと考えますが、いかがでしょうか」と言うように、具体的な自分の意見を提案することこそ重要であって、「白紙」の状態で住民の意見を聞くなどというのは、むしろ無責任な態度と言われても仕方ないと思います。
なぜなら、「政治的な中止」と言うことはあっても「政策的な中止」はないのです。
今問題になっている政策を実行するか、しないかは二者択一であって、「どちらでもない」ということはないのです。

 市町村合併は自分の町(都市)の将来性を決定することですから、慎重にあらゆる角度から研究を重ね、合併することのメリットとデメリット、そして、合併しないことのメリットとデメリット等の研究調査のプロセスを市民・町民に明らかにすべきであります。
住民の側に立てば判断の材料であるデータや資料を公開してもらわなければ、良いか悪いかは判断出来ないと言うのが正直なところではないでしょうか。
そして、今なぜ合併が必要なのか、その時代の趨勢や国が進めている三位一体の改革とは何なのか、それによって国の姿は、地方の姿はどのように変わって行くのか、分かり易く説明して頂きたいと思うのは当然です。
首長にはその為の補助職員がいるのですから、多くの職員の中から有能なメンバーを選出して、プロジェクトチームを編成し、対応すべきではないでしょうか。

 県のプロジェクトチームに合併するパターンを示されたり、強要されないまでも、リーダーシップを奪われることは、正に「自治なし」のそしりを受けても仕方ないのではないでしょうか。
何よりも住民にとって必要なことは、将来の福祉や医療など市民生活がどうなるのか、安心・安全な生活が保障されるかどうかが最も関心事ではないでしょうか。

地方自治は国政と違い、政党政治ではありません。
この地域住民の生活こそ住民自治の原点です。
当局と議会はこの住民の素朴な疑問に応える責任があると思いますがいかがでしょうか。

 秋 鹿  博
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2005年11月17日

「後の祭り」

 今年は天気にも恵まれ、年に一度の「富士宮秋まつり」は、盛大に開催された。
年々開催区が増えて、昨年から加わった阿幸地地区も、今年は本格的に立派な会所をつくり、仲間入りした。

 中心市街地20区のこどもたちから元老まで、正に老若男女も、この時ばかりは自分の住んでいる「区」に意識が高まり、「まつり」を通じて地域の絶好のコミュニティの場となっているなと感じる。
 また、地域の担い手の育成、「人づくり」にも一役買っているのではと思う。
 老若男女すべてに活躍の場があり、古い伝統としきたりを守り続ける「まつり」のある「ふじのみや」は、やっぱり誇れる「まち」です。
 
 しかし、祭りが盛大になればなるほど、祭りが終わってからの、この一抹の寂しさは何だろう。

 この秋まつりへの情熱が、日常の「にぎわいのまちづくり」へのエネルギーに点火出来ないだろうか、といつも思う。終わってしまうと、また静かな人通りのない街に帰ってしまうからだ。
 来年の「浅間大社1200年祭」を間近にして、一瞬のにぎわいだけで、果たしてこれでよいのだろうか。

 県指定無形民俗文化財である「富士宮ばやし」の競り合いは、とても勇壮で迫力があって、じゅうぶん観光文化資源として自慢出来る。引き廻す山車や屋台も「区」によっても個性が出ていて、楽しめます。

 しかし、もうひとつ何かが足りないと感じてしまう。
 それは見せる側からの「見る側の視点」に配慮が少々足りないのでは?
 この見る側の視点が、発展し拡大してメジャーになったのが、「風の盆」であり、「よさこい祭り」「阿波おどり」。
 もっともっと、観光客も市民も巻き込み、「見る側の視点」と一体のモノとして考慮できないだろうか。また、「にぎわい」も継続できないだろうか。

 今やショッピングが、テレビショッピングやネットショッピング、カタログショッピングなど、物を買う形、方法、手段が変わってしまった。
 もちろん、最大の影響は郊外の大型ショッピングセンターの出現が大きい。

 街の機能が「物を買う機能」から「楽しみ交流する機能」へ移っているのは解っているのだが、、、。
 
 祭りの時だけ昔の賑わいを思い出し、「昔は良かった」などと言って手をこまねいていては「後の祭り」に終わってしまう。

秋 鹿  博
posted by あきしか at 15:31| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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