2006年05月08日

「自由という“ま ぼ ろ し”」

 子供が親に叱られると、「だって私の自由でしょ」と口答えをする場合がよくありますね。
たしかに子供にも基本的人権があり、人として尊重されなければならないと思います。

 特に最近の児童虐待は一体なんだろうか、と考えさせられてしまいます。
核家族化の現象で、親もまだ精神的に大人に成長していないのではないか、子供同士で生活して孤立しているのでは、と思ってしまいます。

 少なくとも、成長するまでは親は子を育てる責任と義務がありますから、一人の子供を人として育てることは並大抵のことではないと思います。
ですから、時にはどうして良いのか解らない時もあるでしょう。
この意味では同情する余地は充分あります。

 さて、本当の自由とは、一人前の成人となって自分で考え自分で決断して、自分でその責任を全うするようになってこそ、「自由というものが得られる」のではないでしょうか。
ですから、成人前までは子供の「自由」などというものはないと考えた方がよいと思いますし、逆に言えば、それだけ親の責任は重いということになりますね。

 日本には昔から「人事を尽くして天命を待つ」という素晴らしい言葉があります。
スポーツ選手で言えば、鍛えて、鍛えて、あらゆる努力をした後に勝利の女神に祈るような心境を言うのではないでしょうか。

これに似た言葉に、「完全なる自由」「パーフェクト・リバティ」という含蓄ある言葉があります。
目的を達成するためには、あらゆる科学的な努力を積み重ね、人間がなすべきことを全て尽くした上で神に祈るというものです。

 この二つの言葉に共通している大切なことは、目的も自由も努力なしで与えられるものではなく、自らが勝ち得なければならないということです。
 「自由」と「平等」は、誰もが好きな耳障りの良い言葉ですが、「平和」と同じように、ただ訴えていたり、唱えていれば実現するものではないと思うのです。
 
 先日、感動を持って読んだベストセラー『国家の品格』のなかで、著者の藤原正彦氏は、「本来人間には自由奔放な自由というものはない、規則や規律の中にこそ真の自由がある」と名言しています。

 現在の日本社会の混迷は、この「自由」のはき違いによって、自分だけ良ければという利己的な自由がはびこり、逆に不自由な社会になってしまっていると指摘しています。

 このように、自由にしても平等にしても、これは「まぼろし」であって存在するものではない、と考えてみてはどうでしょうか。

 たしかによく考えてみると、この世の中には自分の都合の良い自由などは存在しないし、努力もしないのに平等に分配されるものは皆無と言っても間違いないのです。
 特に、成人前の子供達にこのことをしっかりと「言い聞かせる」必要があると思いますがいかがでしょうか。

 日本は、今までどちらかと言えば単一民族で構成していた為、性善説で人間の助け合いや協力などは、善意によって社会が成り立っていました。

 ところが、国内の中にも様々な考え方や激しい国際化の波にさらされてきますと、自由という概念が異なって、海外の国々のように最悪の状況を考えながら、「自らの生命は自らが守る」という性悪説の社会、厳しい社会に突入していることを、社会全体が自覚すべきです。

 私は与えられたものではなく、自らが努力し得たものには愛着が生まれ、感謝する心、有難味がわかるようになるのではないかと考えます。
 もちろん、「スパルタ教育」や「規律訓練」で人間が立派に育つとは思えませんが、ある一定の秩序・規律と言うものは必要だと思います。

 そして、自然の法則や物の道理、原理原則をしっかり身につけてこそ、時代のニーズや環境の変化に柔軟に対応出来るのではないでしょうか。

 拝金主義や成果主義ばかりでは、日本の文化も伝統も失ってしまうばかりか、「物で栄えて心で亡ぶ」ことになってしまうのではないかと憂う今日この頃です。


秋 鹿  博
posted by あきしか at 17:30| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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