2006年07月28日

「お見事!欽ちゃんの危機管理」

 欽ちゃんの記者会見を聞いて、思わず目頭が熱くなりました。
萩本欽一氏が率いる“茨城ゴールデンゴールズ”のメンバーの一人が不祥事を起こし、警察にお世話になったことで、何とチームを解散して世間にお詫びをするというものでした。
チームへの愛着はもちろん、「三度の飯よりも好き」という野球をやめるということは、よくよく考えた結果でしょうが、欽ちゃんが良くそこまで決断したと本当に感心しました。

 それにしても欽ちゃんの決断の早さと見事さは、とかく後を絶たない政治家や企業の危機管理と記者会見に比べたら、手本とも言うべきで、時には涙を浮かべての談話は聞く者に感動を与えました。
そこには、演技や打算は全くなく、欽ちゃんの人柄と人間性そのものに触れた思いでした。

折角苦労して作った野球チームを解散する!ということは、関係者にとっては強いショックであったでしょうが、欽ちゃんとその仲間がいかに野球を愛しているかが痛いようによく解ります。
特に、欽ちゃんが事件を起こしたお笑いタレントに愚痴一つ言わず、自らの責任を明らかにしたことで、そのメンバーのタレントにとっては、これ以上の辛く苦しい反省を求められたことはなかったのではないでしょうか。

 こんなに美しくて悲しいことを全国の野球ファンが放っておくはずがありません。
もう、その三日後にはチームの再開運動が盛り上がり、とうとう欽ちゃんもその世論に押されて、22日新潟において行われた試合中に、球場で解散の撤回を約束していました。
修まるところに修まったという「野球騒動」でした。
何よりも救われたのは、不祥事を起こした本人だったかも知れません。

 しかし、予期しないアクシデントや不祥事にどのように立ち向かうかが危機管理とすれば、“禍転じて福となす”“ピンチはチャンス”にした今回の欽ちゃんの一連の対応は、100点満点、いや120点をあげても良いのではないでしょうか。
おまけの20点は、暗いニュースの多い昨今、久しぶりに日本中を爽やかにしてくれたお礼と言ったら安いものですね。
欽ちゃん、ありがとう!

秋 鹿  博
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2006年06月19日

「遊び型総合スポーツ少年団」

 私たちの子供の頃は、どこにも空き地があって、いつも誰かが遊んでいました。
学校から帰るとカバンを家にそっと置いて、逃げるように空き地に向かって走ったものです。

なぜですって?

まごまごして見つかると親から用を言いつけられるからです。

 とにかく子供は、シクラメンの歌の台詞のように、どんなに遊んでも疲れを知りませんでした。
空き地へ行くと、もう何人かいて野球をしています。
しかも、人数に合わせてルールを自由自在に創意工夫して楽しむのです。
例えば、「ワンバン・ノーバン」。一人が打者になり、残る子供はグローブを持って守ります。
ピッチャーが投げ、打者が打ち、その打球をワンバウンドかノーバウンドで取った者が今度は打者となって打てるのです。
人数が多くなると、同じ位の子供同士がジャンケンをして、2チームに分かれて試合をします。
人数が9人ずついない場合は、三角ベースと言って一塁と三塁とし、二塁を省きます。
さらに少ない時は、キャッチャーを攻撃チームから出して捕ったりします。

 とにかく子供は遊びの天才で、四季の移り変わりや天候に合わせて大道具・小道具を使って様々な遊びを考えたものです。
しかも、その地域の子供は全員が参加しますから、野球が出来ない子はいないのです。
上手か下手か、好むか好まないかの差はあっても、年上の子供が年下の子供に教えますから、みんな出来るようになるのです。

この遊びには、大人は介在しません。
すべて子供同志でルールを決めて興じます。

 これに比べ、現代の子供たちと言えば、学校から帰ると塾通いかスポーツ少年団。
家の中では、テレビゲームやパソコン。大人以上に忙しいのです。
特にスポーツ少年団は、小学校低学年に入団する為、体の成長いじょうに練習が激しいと、ケガや障害を起こしやすいのです。
骨格や筋肉がまだ未発達の上に高度な技術を要求すれば、肩や肘、膝に負担がかかるのです。
加えて、昔の子供のように遊んでいないので、野球バカ・サッカーバカになりやすいのです。

私は子供会、ボーイスカウト、スポーツ少年団と全てを体験しましたので、その経験からすれば、「小学校の時は基礎体力をつける」ことに専念し、余り高度な技術を教えないこと、小学校の頃はどんな可能性や才能があるか解らないので、様々なスポーツを体験させること。
スポーツ医学を導入して、子供たちの成長に合わせて常に専門家のアドバイスを受けること。
その経験を生かして、中学に入ったら「自分の進むべきスポーツを選択する」ことではないでしょうか。
小学校の頃、素晴らしい活躍をしていながら中学校へ行って伸びないのは、小学校の時にやり過ぎて障害を起こしてしまうからです。

もうそろどろ、スポーツ少年団のあり方を見直してはどうでしょうか。
その一つの選択が、遊び型の「総合スポーツ少年団」ではないでしょうか。

秋 鹿  博
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2006年06月16日

「NHKはなぜ民営化しないのか」

 国も地方自治体も流行のように、民営化や指定管理者制度を導入している。
小泉内閣の命運を賭けて断行した郵政民営化ではあるが、不祥事続きであってもNHKの民営化は、小泉さんは指示していない。

 口癖のように「民営化できるものは民営化に」と言ってきたのになぜだろう。
それは、規制緩和でも、民営化でもやって良いものと、やってはいけないものがあるからだ。
本来、行政が直接運営していると、人件費などのコストがかかる割合に、成果が上がらない、条例にしばられ創意工夫が発揮されない等々の不合理が生じていたからだ。

 つまり、公共性と経済性のバランスの問題である。
富士宮市でも、市立体育館や市民プール等のスポーツ施設や市民文化会館、天母の湯等の施設が、指定管理者制度によって民営化されている。

 最も留意すべきは、管理する側の立場ではなく、利用する側の市民の立場にたっているかどうか。
サービスを向上させることが出来れば、それだけ利用者が増え、施設が活用され、経済性が高まり、その結果、委託費が抑えられ、市民の税金が軽減できることになる。

 NHKの日本放送協会の運営については、時々発生する不祥事に、国民は厳しい目で見ているが、放送の内容については、大方の理解と支持を得ているものと思う。
と言うのも、全部とは言わないが、民法の番組はますます低俗となり、国民の文化レベルを低下させ、青少年への影響に頭を痛めている国民は多いからだ。
 
 これに対し、NHKの番組は常に時代を先取りし、年代層や文化的趣向をを充分理解したバラエティに富む企画番組によって、どれだけ国民生活を豊かにしてきたか、芸術文化の向上に果たして役割は計り知れないものがある

 また、ドキュメンタリー番組や歴史探訪、野営の生態系、政治討論、プロジェクトX等の人気企画は、NHKならではの番組である。
 最も国民が誇りにしているのは、オリンピックや国際報道番組で、その映像技術・IT技術は常に世界の最高水準にあることだ。

 文字通り、国際社会への貢献と国民の公共の利益に合致していると確信できる。
しかも、税金を出来る限り使わないで、国民の受益者負担で経営していることに感謝している。
 これだけ充実した番組をわずか1ヶ月2,790円の受信料で家族全部で楽しめるのは本当に有り難い。
 もちろん、不祥事に対しては、その責任を明確にして、国民に解り易い対策と処分を行って、国民の信頼を大切にして欲しい。

 しかし、この事と「受信料」の未納とは本質的に問題が違う。
払うものは払って、その上で意見は述べて欲しいと思う。
なぜなら、大多数の国民はキチッと支払っているのであって、「正直者が馬鹿をみる」ようなことがあってはならないと思うからだ。

 このNHKの改革に、このほど竹中総務大臣の諮問委員会が提言をまとめた。
もちろん民営化ではなく、むしろ事業の削減で、民放の意見を反映したものになっている。
 注目する点は、受信料を義務化することと、地上テレビ放送がデジタル放送に完全移行する、2011年への技術革新とその対応である。
 いずれにしても、通信と放送の融合が加速することが考えられ、何よりも公共放送の公益性を尊重すべきで、民営化に繋がる子会社化には慎重であって欲しい。

 「三権分立」とは、司法・立法・行政を指し、その権力と権限が国民生活を守ると共に、圧迫しないよう三権がお互いを牽制し合い、行き過ぎを是正すり為にあるのだが、今やマスコミ権力が社会を動かしかねない「四権分立」の時代と言って良い。

マスコミ関係者は、「報道の自由・表現の自由」と、金科玉条のように言うが、それなら、自主規制や報道のモラルの向上に、もっと姿勢を正して努力して欲しい、と願うのは私だけではないと思う。

                                 秋 鹿  博
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2006年05月08日

「自由という“ま ぼ ろ し”」

 子供が親に叱られると、「だって私の自由でしょ」と口答えをする場合がよくありますね。
たしかに子供にも基本的人権があり、人として尊重されなければならないと思います。

 特に最近の児童虐待は一体なんだろうか、と考えさせられてしまいます。
核家族化の現象で、親もまだ精神的に大人に成長していないのではないか、子供同士で生活して孤立しているのでは、と思ってしまいます。

 少なくとも、成長するまでは親は子を育てる責任と義務がありますから、一人の子供を人として育てることは並大抵のことではないと思います。
ですから、時にはどうして良いのか解らない時もあるでしょう。
この意味では同情する余地は充分あります。

 さて、本当の自由とは、一人前の成人となって自分で考え自分で決断して、自分でその責任を全うするようになってこそ、「自由というものが得られる」のではないでしょうか。
ですから、成人前までは子供の「自由」などというものはないと考えた方がよいと思いますし、逆に言えば、それだけ親の責任は重いということになりますね。

 日本には昔から「人事を尽くして天命を待つ」という素晴らしい言葉があります。
スポーツ選手で言えば、鍛えて、鍛えて、あらゆる努力をした後に勝利の女神に祈るような心境を言うのではないでしょうか。

これに似た言葉に、「完全なる自由」「パーフェクト・リバティ」という含蓄ある言葉があります。
目的を達成するためには、あらゆる科学的な努力を積み重ね、人間がなすべきことを全て尽くした上で神に祈るというものです。

 この二つの言葉に共通している大切なことは、目的も自由も努力なしで与えられるものではなく、自らが勝ち得なければならないということです。
 「自由」と「平等」は、誰もが好きな耳障りの良い言葉ですが、「平和」と同じように、ただ訴えていたり、唱えていれば実現するものではないと思うのです。
 
 先日、感動を持って読んだベストセラー『国家の品格』のなかで、著者の藤原正彦氏は、「本来人間には自由奔放な自由というものはない、規則や規律の中にこそ真の自由がある」と名言しています。

 現在の日本社会の混迷は、この「自由」のはき違いによって、自分だけ良ければという利己的な自由がはびこり、逆に不自由な社会になってしまっていると指摘しています。

 このように、自由にしても平等にしても、これは「まぼろし」であって存在するものではない、と考えてみてはどうでしょうか。

 たしかによく考えてみると、この世の中には自分の都合の良い自由などは存在しないし、努力もしないのに平等に分配されるものは皆無と言っても間違いないのです。
 特に、成人前の子供達にこのことをしっかりと「言い聞かせる」必要があると思いますがいかがでしょうか。

 日本は、今までどちらかと言えば単一民族で構成していた為、性善説で人間の助け合いや協力などは、善意によって社会が成り立っていました。

 ところが、国内の中にも様々な考え方や激しい国際化の波にさらされてきますと、自由という概念が異なって、海外の国々のように最悪の状況を考えながら、「自らの生命は自らが守る」という性悪説の社会、厳しい社会に突入していることを、社会全体が自覚すべきです。

 私は与えられたものではなく、自らが努力し得たものには愛着が生まれ、感謝する心、有難味がわかるようになるのではないかと考えます。
 もちろん、「スパルタ教育」や「規律訓練」で人間が立派に育つとは思えませんが、ある一定の秩序・規律と言うものは必要だと思います。

 そして、自然の法則や物の道理、原理原則をしっかり身につけてこそ、時代のニーズや環境の変化に柔軟に対応出来るのではないでしょうか。

 拝金主義や成果主義ばかりでは、日本の文化も伝統も失ってしまうばかりか、「物で栄えて心で亡ぶ」ことになってしまうのではないかと憂う今日この頃です。


秋 鹿  博
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2006年04月21日

「若者のエネルギー」

 とうとうフランスの若者達は、政府の「若者雇用対策法案」を撤回に追い込みました。これは、学生を中心とした抗議行動に、シラク大統領やドビンパン首相が屈した形で、政府側の大失態となりました。

 法案の中味については様々な意見があり、双方の言い分にはそれぞれの立場や思惑があり、一概には言えませんが、私が感心、いや、驚いたことは、フランスの学生や青年達が立ち上がり、反対運動を起こし、徹底して抗議したことです。

 欧米に共通して言えることは、若者達が国の政治や政策に高い関心を持ち、政治を変えるエネルギーとバイタリティを持っていることです。
 また、政府や国会が間違った判断をしたならば、反対運動を起こし、止めさせることが出来るという民主主義に必要な緊張感を国内外に示した、と言っても良いと思います。

 比較すること自体どうかと思いますが、果たして日本ではこのような事が、起こり得るのでしょうか。
 かつての学生運動は、あの忌まわしい浅間山荘事件以来、鳴りを潜め、国民の記憶から忘れ去られようとしています。

 私は事の良し悪しは別として、若い人達が国家や社会の矛盾や不合理に対し、その正義感から腹を立てたり、抗議をすることは当然だと思っていますが、どうでしょうか。 
 
 いや、むしろ今の日本社会は、「自分さえ良ければ、人のことはどうでも良い」という風潮が横行して、世のため人のために、時には血や汗を流すことを忘れてしまい、緊張感に欠けていることが問題なのです。
 問題があった時、問題が指摘され、公の事であればそれが公開され、議論される方が健全であると考える方が正常ではないでしょうか。

 たしかに、現在の日本でそのような反対運動や抗議行動が起こらないのは、社会全体が世界の各国に比べ、「かなりうまくいっている」ということもあるかも知れませんが、本当にそうなのでしょうか。

 私には、むしろ戦後導入された民主主義の中の権利のみの「いいとこ取り」と、経済発展にによる「拝金主義」によって、日本人の心に、個人主義ならぬ利己主義がはびこり、「社会正義や義憤」「公共心や公徳心」が失われて、「自分以外のことに無関心」になっているような気がしてなりません。

 10年前に駅のホームで起きた殺人事件で、息子を失った父親が、今も犯人の手掛かりとなる情報を求めて、苦悩する姿をテレビで見て、誰か助ける人がいなかったのか、せめて駅員に知らせたり、110番に電話したりする人がいなかったのか、白昼、人ごみの中で行われた犯罪に、こうまで「見て見ぬふり」が出来るのか、加害者よりも無関心者の方に、何か重い恐ろしさを感じるのは私だけでしょうか。

 本来、日本人は社会道徳や規範を守り、清潔で義理人情に厚い、国民性を持っていたはずです。

 憲法の改正も教育基本法の改正も、政府間の取り引きや妥協ではなく、国民生活の原点と現実に、もっと目を向けた議論をして欲しいと願わずにはいられません。

                                 秋 鹿  博
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2006年04月19日

「街角でひろったあったか〜い話」

 野山も草木が躍動をはじめ、春らんまんの季節を迎えています。野山には色彩りどりの花が咲き乱れ、一年の中でも最も良い季節を迎えています。

  この行楽シーズンになりますと、健康づくりと隠れた史跡を訪ねての、『歩け歩け』が盛んになり、富士山周辺は、ウォーキングコースの宝庫と言っても良いと思います。

 浅間大社を中心とした市街地も城山公園も、潤井川沿いの散策道も、市民の皆さんに喜ばれているウォーキングコースの1つです。
特に、商店街を歩く老若男女がグループをつくって、歩いている姿は本当に微笑ましく、体力づくりとコミュニティづくり、そして、町の賑わいと一石三鳥の効果があるようです。

 先日、市街地を歩いているお年寄りに嬉しい話を聞きました。
それは、商店街に買い物に行ったり、散策をしていて一番困るのは、やはり「トイレ」の問題だと言います。

 ところが、神田通りで困っていると、
「買い物をしなくても、いつでも使って下さいね」
「のどが渇いたらこれを飲んで下さい」
と、お水やお茶を備えてあり、
「いつも店頭の周りを草花などで美しく飾りつけ、道行く人の心を和ませていて、私たち年寄りにとっては何よりありがたい」
と、しみじみと語ってくれました。
しかも、さりげないサラッとした態度にすっかり感心して嬉しくなったと言います。

 そして、「こんな店がもっともっと増えたら、私たちも苦にならないで街に出かける」と言うのです。

 考えてみると、トイレは「厄介物」ではなくて、人が生きて行く上で必ずお世話になる大切な場所であり。道の駅やコンビニでは、むしろトイレを貸すことを大いに活用しているのです。

 「損を見て得を見ろ」、人の為に尽くしてこそ町の賑わいも店の繁栄もあるのではないか、何か昔の人の「商人道の教え」をそのまま実践しているような素晴らしい話しではありませんか。

 超高齢化・少子化社会に突入した今、中心市街地はシルバーやシニアの皆さん、こどもたちが、安心して快適に暮らすことの出来る「ひとにやさしい、ユートピア」にしてはどうだろうか、と私は思います。

 先述したお店の主人のような考え方の経営者がひとり、ふたりと増えたなら、大型店に負けない商店街になると思います。

 よく考えると、市街地の持つ特典は、
@駅に近い
A買い物がしやすい
B街がキレイ
C安心して歩ける、
そして、何よりも
D人々が親切。
であることが、最も大切なことで、「ひとにやさしい、安心して楽しむまちづくり」は時代のニーズではないでしょうか?

高齢者やこどもたちだけでなく、観光客にとっても市民にとっても、先述した「もてなしの心」のお店がもっともっと増えたら、商店街に足を運んでくれる人はもっと増えるのではないでしょうか。

 秋 鹿  博



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2006年04月07日

「危機管理という視点から見た民主党」

 今、日本の社会は、政治・行政・経済団体、そして各企業において、道議に反する事件や不祥事が後を絶たない。
特に企業は、不祥事を起こした場合、社会的責任を問われ、売り上げは落ち込み、株価は低迷し、事業は縮小される。
その対応のまずさによっては、破綻の危機に瀕する場面も少なくない。

そこで、各企業はコンプライアンス(企業倫理と法令の順守)に常に配慮し、努力して行かなければならない。
なぜなら、この『危機管理』は不祥事を防止して、企業が生存して行くために、不可欠な問題だからである。

そして、仮に不祥事が起きた場合、この危機にどのように立ち向かって行くか、次の4つの原則があると言う。
すなわち、@隠さない、A説明する、B決断する、C対策を示す、そして、誠心誠意を持って謝罪することだ。

もちろん、政党と企業を同一視して語ることは出来ないが、今回の偽メール事件に右往左往した民主党のドタバタを、『危機管理』という視点で検証してみた。

 前原代表がメール問題の責任を取って辞任した。
しかも、執行部の総退陣という結党以来の危機と言っても過言ではない。
さらに、永田議員も辞職して全面的な敗北と言った感を否めない。
それなら何故もっと早く永田議員を辞めさせなかったのか、うやむやにした時間を経過させ、国会を空転させたことが、永田議員個人の失態にとどまらず、民主党の責任問題に発展して行ったのだ。
このような結果を招いた原因を、先述した『危機管理』の四原則に、当てはめて考えてみると解りやすい。

まず、@「隠さない」という点だが、最後まで情報提供者の西沢孝氏との関係を隠ぺいし続けた。
本当に虚偽でなければ、堂々と胸を張って自民党を追い込めたはずだ。
これだけでガセネタと言われても仕方ない。

次のA「説明する」であるが、国会でブチ上げておいて永田議員は雲隠れしてしまった。民主党を代表しての質問である以上、野田国対委員長であれ、鳩山幹事長であれ、党を代表する責任ある立場の者が、説得力のある説明をすべきである。
それが出来なかったゆえに、国民の疑惑の目が永田議員ではなく、民主党に向けられた。

Bの「決断する」点であるが、前原代表とそのブレーンだけで、ベテラン議員も含め民主党議員が真剣になって取り組んでいる姿が、国民の前に見えてこない。
むしろ、前原代表は孤立して、決断するのが一ヶ月以上も遅れてしまった。

Cの「対策を示す」であるが、@〜Bまでボタンの掛け違いをしてしまったために、
「さすが若い政党だ、潔い!」
といった、具体的な対策を示す事が出来なかった。
本来は、野党が、政府与党を追求することは当然で、その糾弾が結果として政治に緊張感を与え、改革・改善することが出来たなら、大きな意味で公共の利益に結びつくはずである。

この場合は、多少の国会の空転も国益のためならば国民も納得し許されるだろう。
今回のメール問題事件は、はっきり言って何の意味も公益もなく、ただ民主党の茶番劇に終わってしまい、「四点セット」と言われた、本来議論すべきはずの「重大問題」から国民の目をそらし、政府与党を結果として、擁護してしまったことへの損失は計り知れない。

また、小泉劇場で自民党を圧勝させたマスコミは、またしてもその本質を見抜く力量を失い、現象のみに振り回される報道姿勢を繰り返すことになり、その体質を改めて問われることになった。

 最後に、少し気がかりなのは、世代交代が進みつつある政界が、派閥政治にまた逆戻りしないかとの心配だ。
小泉首相は、次期総理・総裁の条件として、@決断力、A洞察力、B情熱の三点を挙げた。
前原代表に対しても、「これを良い経験として出直し、活躍して欲しい」と余裕とも取れる「労い」の言葉が印象的であった。

健全な、政権交代の可能な、二大政党時代を切り開く為にも、民主党の再建に期待したいと思う国民も少なくないとおもわれる。
今、新聞報道によれば、誰よりも自民党的な、小沢前副代表の名前が、全面に出ているようだ。
もっと民主党らしい、爽やかな人材はないのだろうか。
新鮮味がないばかりか、時計の針が後戻りしてしまうような、何か胸騒ぎがしてならない。


秋 鹿  博
posted by あきしか at 09:49| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月23日

自然からの警鐘「山は海の恋人」

 今年の冬は例年になく厳しかった為、桜の開花も1週間から2週間遅れるそうです。
大自然は美しい景観や天の恵みを人間に与えてくれますが、時には天災という厳しい試練を与え、人間社会に問題を投げかけます。

 私の一貫した思いは、「人間も自然の一部であって、人間だけの自然ではない」ということです。

 最近、野生動物のシカやイノシシ、サルなどが里山に下りて来て農作物を荒らしたり、クマに至っては人や民家を襲うなどの事件が頻繁に起きています。
もちろん人間社会から見れば、とんでもない物騒なことですから、有害鳥獣駆除を名目に、猟友会の人たちに依頼して撃ち殺したり、棚や金網を設けて進入を防いだりしています。

 また、カラス、ハトなどの鳥の被害に頭を痛め、いたちごっこの戦いを長年続けている地域もあります。
この対策は試行錯誤で苦労している割りには効果はなく、万策尽きたと嘆いている関係者も多いと聞きます。
そこで、百歩譲って動物や鳥の側に立って考えてみることも必要ではないでしょうか。

 まず考察してみたいのは、いつ頃からこのような現象が現れたかです。
明らかに言えることは、山に餌がない、食物が少ないことが最大の理由で、山が死んでいることです。

 かつて豊かで多彩な山々は、ブナやミズナラ、シイ、ドングル等の自然林に覆われ、草が繁り、実が連なり生物たちの生息をもたらし、枯葉や動物の排泄物は堆積して有機質の表土をつくり、この豊かな大地が微生物やミミズなどの鳥や昆虫の餌を生み、小動物を育て、この小動物を大動物が食べて、野生の掟が守られ大自然を築いて来たのです。
この植物連鎖による循環作用が緑豊かな山を育て、水源涵養や水害防止の保水力を保ち、人間社会の集落を守り、やがて下流の都市の生活を維持してきたのです。

 ところが、戦後焼土化した都市の再構築に大量な木材資源が必要となり、一斉に杉や桧を植えなければなりませんでした。
市民生活においても、その燃料は薪や炭、練炭ですべて原料はクルギ・ドングリ等の広葉樹などの木材でした。

ある日突然、台所にガスレンジが入ると循環していた自然林は、薪がお金にならなくなり、切り倒されて杉や桧林に変わったり、宅地になったりしました。
せっかく成木した杉や桧は筏期が来ても、高いコストと市場の安値からとても輸入材と競争も出来ず放置されているのです。

 先述の動物たちの里山への出現は、考え方によっては「山の神からの使い」ではないでしょうか。
人間社会への警告であり、猛省を促す何ものではないと考えるべきです。
水源の涵養と災害防止は、国・地方を問わず、何よりも優先されるべき公共事業です。
このように考えると、山林は最早個人の所有することには限界があり、山の管理についての発想を転換する以外にありません。

 最近、漁師の人達が山に木を植えています。
活きの良い魚は清流が注ぐ海に生息するからです。

また、都市の安全は村落や集落があってこそ守られているのです。
今こそ川上と川下、都市と農村が力を合わせなければなりません。

「山を守る」ことに、都市と川下の人たちが応分の負担をしてもらうことは、時代の趨勢であり、その制度を創設することが急務ではないでしょうか。

 「山は海の恋人」とは正にこのことなのです。

                                 秋 鹿  博
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2006年01月31日

「住民自治の原点」

 昔から「自治なし」という言葉があります。
最近はあまり聞かれませんが、地方によっては方言で、自分のことを自分で出来ない子供に向けて「このずつなし」などと「叱咤激励」を込めて言ったものです。
この「ずつなし」の語源はもちろん「自治なし」からきているようです。
少子化によって子供を大切にする余り、親がなんでもしてしまうので、子供たちは自分から進んでやることが少なくなっています。
自分の意志をしっかり持って、自分で判断することの出来ない子供たちが増えているような気がします。

 いやいや、どうもこの傾向は子供たちだけでなく、大人の世界でも言えそうです。
例えば、市町村合併をするかしないかは首長のリーダーシップに依るところが大きく、首長がまず自分のビジョンを持つことを前提に地方自治法は出来ているのです。
そして、首長の提案を受けて、議会が審議して方向を決定する権限が与えられているのです。
もちろん、この際には5年後・10年後のこの町の将来のあり方と、住民一人ひとりがどのような思いや考え方に立っているかを把握して、慎重にていねいに取り組んで行かなければなりません。

 ところが、混迷している自治体では行政側と議会側がうまく噛み合わず、それぞれ使命を果たしていないように見受けられます。
しかも、自分の考えを示さないで住民投票で民意を聞くと言えば、より民主的に聞こえるかも知れませんが、これはパフォーマンスに過ぎず体のいい責任転嫁です。
たしかに、このような時代のトップは大変とは思いますが、「このようにしたいと考えますが、いかがでしょうか」と言うように、具体的な自分の意見を提案することこそ重要であって、「白紙」の状態で住民の意見を聞くなどというのは、むしろ無責任な態度と言われても仕方ないと思います。
なぜなら、「政治的な中止」と言うことはあっても「政策的な中止」はないのです。
今問題になっている政策を実行するか、しないかは二者択一であって、「どちらでもない」ということはないのです。

 市町村合併は自分の町(都市)の将来性を決定することですから、慎重にあらゆる角度から研究を重ね、合併することのメリットとデメリット、そして、合併しないことのメリットとデメリット等の研究調査のプロセスを市民・町民に明らかにすべきであります。
住民の側に立てば判断の材料であるデータや資料を公開してもらわなければ、良いか悪いかは判断出来ないと言うのが正直なところではないでしょうか。
そして、今なぜ合併が必要なのか、その時代の趨勢や国が進めている三位一体の改革とは何なのか、それによって国の姿は、地方の姿はどのように変わって行くのか、分かり易く説明して頂きたいと思うのは当然です。
首長にはその為の補助職員がいるのですから、多くの職員の中から有能なメンバーを選出して、プロジェクトチームを編成し、対応すべきではないでしょうか。

 県のプロジェクトチームに合併するパターンを示されたり、強要されないまでも、リーダーシップを奪われることは、正に「自治なし」のそしりを受けても仕方ないのではないでしょうか。
何よりも住民にとって必要なことは、将来の福祉や医療など市民生活がどうなるのか、安心・安全な生活が保障されるかどうかが最も関心事ではないでしょうか。

地方自治は国政と違い、政党政治ではありません。
この地域住民の生活こそ住民自治の原点です。
当局と議会はこの住民の素朴な疑問に応える責任があると思いますがいかがでしょうか。

 秋 鹿  博
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2005年11月17日

「後の祭り」

 今年は天気にも恵まれ、年に一度の「富士宮秋まつり」は、盛大に開催された。
年々開催区が増えて、昨年から加わった阿幸地地区も、今年は本格的に立派な会所をつくり、仲間入りした。

 中心市街地20区のこどもたちから元老まで、正に老若男女も、この時ばかりは自分の住んでいる「区」に意識が高まり、「まつり」を通じて地域の絶好のコミュニティの場となっているなと感じる。
 また、地域の担い手の育成、「人づくり」にも一役買っているのではと思う。
 老若男女すべてに活躍の場があり、古い伝統としきたりを守り続ける「まつり」のある「ふじのみや」は、やっぱり誇れる「まち」です。
 
 しかし、祭りが盛大になればなるほど、祭りが終わってからの、この一抹の寂しさは何だろう。

 この秋まつりへの情熱が、日常の「にぎわいのまちづくり」へのエネルギーに点火出来ないだろうか、といつも思う。終わってしまうと、また静かな人通りのない街に帰ってしまうからだ。
 来年の「浅間大社1200年祭」を間近にして、一瞬のにぎわいだけで、果たしてこれでよいのだろうか。

 県指定無形民俗文化財である「富士宮ばやし」の競り合いは、とても勇壮で迫力があって、じゅうぶん観光文化資源として自慢出来る。引き廻す山車や屋台も「区」によっても個性が出ていて、楽しめます。

 しかし、もうひとつ何かが足りないと感じてしまう。
 それは見せる側からの「見る側の視点」に配慮が少々足りないのでは?
 この見る側の視点が、発展し拡大してメジャーになったのが、「風の盆」であり、「よさこい祭り」「阿波おどり」。
 もっともっと、観光客も市民も巻き込み、「見る側の視点」と一体のモノとして考慮できないだろうか。また、「にぎわい」も継続できないだろうか。

 今やショッピングが、テレビショッピングやネットショッピング、カタログショッピングなど、物を買う形、方法、手段が変わってしまった。
 もちろん、最大の影響は郊外の大型ショッピングセンターの出現が大きい。

 街の機能が「物を買う機能」から「楽しみ交流する機能」へ移っているのは解っているのだが、、、。
 
 祭りの時だけ昔の賑わいを思い出し、「昔は良かった」などと言って手をこまねいていては「後の祭り」に終わってしまう。

秋 鹿  博
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2005年09月26日

「政策の革新性」

 十数年前にベルリンの壁が崩れ、東ヨーロッパの社会主義・共産主義の国々が崩壊して、東西の対立の時代が終焉しました。
 それまで日本では、ソ連や中国の社会主義・共産主義の社会を理念とする政党を「革新政党」と呼んでいました。
 一方、アメリカや西ヨーロッパ諸国のように自由主義を理念とする政党を「保守政党」と位置づけていました。

 ところが、ソ連という国家が亡くなり、中国が自由経済化すると、保守とか革新とかの意味は持たなくなり、一件死語のようになってしまいました。
 保守というからには守るべき価値は何か、革新というからには何をどのように変えるのか、明確にする必要があります。

 例えば、今回の総選挙の争点となった「郵政民営化」にすれば、改革しようとしたのが小泉自民党で、改革に反対したのが民主党・社民党・共産党でありました。
 古い体質の自民党の保守派が反対したのは、現体制の維持という点では当然かも知れませんが、本来革新を標榜する野党が改革に反対したことに、今回の自民党の大勝があったのではないでしょうか。
 どうも、この保守・革新の色分けは、現体制に対し、守るか変革するかの視点と制度や政策によって改革して行くかの二つの視点があるような気がします。

 少し話題を替えますが、古都・京都は平安の昔から約1,200年以上栄えた都であるばかりでなく、日本の歴史・文化の源泉であり、日本人の心のふるさとでもあります。
 日本のどの都市・どの地域よりも、より日本的で優雅な伝統文化は、外国人の憧れの地でもあり、日本の数少ない国際観光のメッカでもあります。

 しかし、この京都の歴史を守り続けたのは、古い物をまもるという単純な保守的な考え方だけでは、現在の京都を守ることは出来なかったようです。
 京都の人々は、何を守るべきか、何を改善すべきかを良く理解し、心得ていたからこそ守り抜くことが出来たと思うのです。
 極言すれば、保守的な基盤に常に創意工夫を重ねて来たからこそ、京の織物や工芸・和菓子に至るまで、伝統が守られてきたのではないでしょうか。

 あの明治維新が成功したのも、幕府の目を逃れて勤王の獅子をかばい続けた、京の人々の先を見る目があったからではないでしょうか。

 このように、政党が時代という荒波を読み、世論の風を受け、国家社会という船を航海する時、常に変化への決断が要求されます。
 私が大変興味深く思っているのは、日本の革新政党は一貫してマルクス思想を堅持してきましたし、最近では、日本国憲法を守ろうと努力しています。
日本の伝統や文化にも精通し、むしろ政策的には保守的な姿勢を貫いているのです。 

 これに対し、自民党は時代の変化に敏感に反応して、高度経済成長期には革新政党が唱えていた福祉政策などを先取りしたり、時代のニーズや政策に対し柔軟に対応してきたことが、政権を維持した最大の要因ではないでしょうか。

 この意味で、今回の小泉自民党の大勝は、小泉総理のあくなき革新性にあったことを忘れてはならないと思います。
 もし、自民党がこの結果に対し、「守り」に入り、革新性を失った時、国民は厳しい審判を下すことは間違いありません。

秋 鹿  博
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「自民党は本当に勝ったのか」

「小泉劇場」と言われた衆議院の解散総選挙は、自民党の大勝利で終わりました。
今までの常識を破り、執念とも言うべき「郵政民営化」の信念を貫いた、小泉さんの大勝利でした。
 日本の政治を変えるには、まずその政権党である、自民党の体質を改革しなければならないと、誰もが考えましたが、それをこれほどまでに実行した人は他にはいません。

 自民党は小泉さんが総理になるまでは長落傾向にあり、選挙の度ごとに得票を減らしてきました。それは、政策よりもむしろ、派閥や企業献金にまつわる「金と政治」の不祥事が後を絶たなかったからです。

 一口で言えば、「自民党の体質」に国民がへきへきとしていたのです。
小泉さんは、この自民党の体質を変え、長老政治・派閥政治を排除して、清潔な政治・開かれたオープンな政治・わかり易い政治により、国民の人気を一心に集めてきました。

 小泉さんは日本では珍しく、「目的追求型」の首相ではないかと思います。
今までは総理になることが目的で、何のために総理になるのかは二の次で、良くわかりませんでした。
総理になるには自民党国会議員の多くの支持を得なければなりませんから、派閥の長となって、出来る限り政敵をつくらず、他派閥からも協力してもらう「合意形成型」の総理を生み出してきました。

 このようにバブル崩壊前は、外交も内政も「みんなで渡ればこわくない」式でやってきたのです。
そして、経済成長の右肩上がりの時代には、これでなんとかうまくいっていました。

 それは、地上では天候不順の風雨にさらされても、地面の中は微動だにしないというように、政治が多少混乱していても、行政(官僚)がしっかりしていれば、なんとか国は運営されてきたのです。
 各省庁に優秀なキャリアと言われた官僚が政策の立案をし、上位下達で地方に流してきたからです。
 ところが、バブル経済が崩壊し、右肩上がりの時代が終焉すると、今までの惰性で政策を遂行していくことは許されなくなりました。

 一方、少子高齢化現象はいよいよ激しくなり、政治も経済も行き詰まり、社会全体のしくみを変革せざるを得なくなりました。

 それが、年金であり、医療であり、その根っこにあるものは財政危機で、700兆円とも800兆円とも言われている借金地獄からの脱却です。
これは、誰が悪いとか、誰の責任とかの問題ではなく、時代のニーズであり、政治家はもとより国民全体の意識改革が必要なのです。

 とりわけ、このような現状を生み出したのは政治の責任であり、特に政権党であった自民党の責任は重大です。
 民主党がいくら政権交代を叫んでも、まだそれだけの能力や力量が不足していることを国民の大多数が見抜いていたから、もう一度自民党に託そう、いや、小泉さんにやってもらおう、もっと言えば、「今、小泉さんしかいない」というのが実態ではないでしょうか。
 この意味で、自民党は勝利したものの、大きな宿題を背負うことになったのです。

 なぜなら、戦後60年かけて構築してきた現在のシステムを、1年や2年で変えることは困難ですから、短期・中期・長期の改革案を国民の前に明らかにすべきではないでしょうか。
 この時の最大の問題は、小泉さんの総理・総裁の任期があと1年であり、1年では到底仕上げることは出来ないので、道筋をしっかりつけるということ、それを誰が引き継ぐかが最大の課題なのです。

 今回は冒頭に述べたように、自民党が勝ったというよりも、小泉さんが勝ったのですから、今回の大勝利は一時的な現象で、ポスト小泉によっては逆戻りする可能性もなしとしません。

 むしろ、大勝利した自民党はいよいよ正念場で、党の存亡をかけて大改革に邁進しなかった場合は、今度は完全に国民からイエローカードならぬレッドカードを突きつけられることを覚悟しなくてはなりません。
 となると、今回の勝利は予告編のようなもので、この任期中に改革の実績を高く掲げて、次の総選挙で国民の信頼を勝ち得た時、本当の勝利と言えるのではないでしょうか。

                                 秋 鹿  博
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2005年09月15日

「世のため、人のため」

大相撲の秋場所が始まった。今場所の焦点は、横綱朝青龍が6場所連続優勝をするかどうかであり、相撲界は正に「朝青龍時代」である。

 もちろん朝青龍の努力は素晴らしいが、この独走を許した大関陣をはじめ、日本力士のふがいなさには目に余るものがあり、昔からの大相撲ファンは嘆いているばかりか失望もしているようだ。
 そんなに体も大きくない、いや小さい朝青龍がなぜこんなに強いのか、また、なぜ日本力士がこんなに弱いのか、まったく解らない。

 現在外国人力士は、幕内だけでも朝青龍を筆頭に11人も数え、十両以下予備軍が多勢いて、みんな力をつけ頑張っているようだ。

 最初は言葉も通じなく、相撲界のしきたりに慣れず、生活の不自由さに戸惑ったはず、そんな中でコツコツと力を発揮してきているのは一体何だろうと考えさせられる。
 当たっているかどうかは解らないが、私なりに考えてみると、人間とは、どうも自分の幸せ、自分の欲望を満たすだけでは、持続的な意欲やファイトが持てないのではないかと思えてくる。

 例えば、外国人力士の目標は、強くなって「給金や懸賞金」を稼ぎ、祖国や家族の元へ「仕送り」をすることが何よりも喜びであるらしい。
 国際的な通過の事情(円高)も加わって、日本から送金する「金の価値」は想像する以上にすざまじいものとなっているはず。
 想像だが、おおげさに言えば、おそらく朝青龍が送金した金は、モンゴルの国家予算に比べても、決して見劣りするものでなく、国へ帰れば「英雄的存在」であることは間違いない。

 日本人本来の「根性」「精進」「ハングリー精神」は、今やどこかへ行ってしまい、外国人力士に奪われてしまった感がある。

 かつては寒い北海道や東北出身の力士は、初代若乃花や大鵬、北の海、千代の富士などの名横綱を生み、常に上位力士であったし、相撲界ばかりでなく、集団就職で「田舎」から「都会」に出て、「苦しいこと・辛いこと」を経験しながらたくましく成長し、大企業の幹部や中小企業の経営者になって、経済界や地域社会で活躍されている人も多い。

 どうも私たち人間は、物が豊かな時よりも貧しい時の方が「美しく生きられそうだ」。
自分の幸せ、自分の欲望を満たすだけでは、本当の喜びは得られないのではないか。
 祖国や家族など、「人のためになっている」という実感が、次の目標・目的に向かって努力する源泉となるのかもしれない。

 ひょっとすると、外国人力士から、私たち日本人が忘れかけていた「日本の心」を取り戻す良い機会として、教えられているのかも知れない。

 本来「恥の文化」と言われたように、他人のことをいつも気にした日本人が、戦後60年、いつの間にか、人のことより何よりも自分のことを考える、自己中心的な日本人になってしまった。

 もちろん、自分のことを第一に考えるのは当然であり、誰もがこのことを認めている。しかし、同時に自分だけでなく、周りのこと、例えば家族や友人、近所の人のことに気を遣うことも大事ではないか。

 本当の個人主義とは、自分という存在を相手に認めてもらうと共に、相手の個人としての存在を認めることであると思う。

 いつの時代も、「人間は一人では生きられない」。
意識するか、しないかにかかわらず、少しキザかも知れないが、やはり人間は「世のため、人のため」に生きることに生き甲斐を見い出し、そのことに喜びを感じ取るような生き方が出来たら素晴らしいと思う。

 今、私たち日本人は改革・改革と叫ぶ前に、自らの足元をしっかりと見つめ直さなければならないと思う。

                                秋 鹿   博
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2005年09月02日

「日本とアメリカのプロ野球の違い」

 連日アメリカ・大リーグの報道が、テレビから目の中に飛び込んできます。
イチロー選手と松井選手の活躍は私たち日本人、特に野球少年達に、誇りと勇気を与えてくれていると思います。

 このように、大リーグが日本のテレビに取り上げられるようになったのは、何と言っても野茂投手の活躍にあります。
その前に、まったく未知の世界に身を投じた村上投手の存在も忘れてはなりません。
 田口選手も井口選手も良く頑張っていますね。

 今や日本の野球は、その技術面においてはアメリカと並んだと言って良いと思いますが、後は選手一人ひとりの個性とパワーだけのような気がします。
 ところが、アメリカのプロ野球の人気と日本のプロ野球の人気の違いは一体何であろうか、と考えさせられてしまいます。

 アメリカでもプロ野球が低迷し、陰りを見せた時がありました。
 せっかく入場券を買ったのに、選手のストライキで試合が中断することがしばしばあり、経営側と選手側がいがみ合い、混迷している間にバスケットやアメリカンフットボールなど、量も質も多様化しているプロスポーツ界に台頭されて、野球が国民とファンからそっぽを向かれてしまったのです。

 そこで、アメリカのプロ野球界は大改革に取り組んだそうです。
まず、野球場の改築・改造をしました。
危険防止で張られた網を全部取っ払い、グランドと観客席を身近にしました。
選手とファンが同じ目線で交流できるように、一体感を演出しました。

 おそらく日本では、安全だ!危険だ!と言って、こんな思い切ったことは出来ないでしょう。
 いきなりボールが飛んできますから、ファンはプレーから目を離すことは出来ません。
 そこで、観覧席に入ってくるボールがプレゼントされるので、大人も子供もグローブを持って行きます。
 「自分もプレーに参加している」という実感が、アメリカプロ野球の魅力の一つと言えるでしょう。
 楽しむためには危険というリスクも伴い、それは個人の自己管理に任せるという考え方です。

 しかも、アメリカの球場は1つとして同じようなものはなく、そのデザイン、アイディンティティは実に個性的で、そのフランチャイズの町の特色を遺憾なく発揮して、野球だけでなく、アメニティ(遊び心)をふんだんに盛り込まれているのです。
 また、本来のアウトドア(野外)の原点に帰るため、極力人工芝は無くして、自然芝に替えていくとか、ドームではなく天開型にして行くとか、日本はこの流れに逆行しているようです。

 野球整備がハード施策とすれば、システムはソフト施策ということになりますが、これも工夫され改善されたようです。
 まず、特定の有名な選手にありがちな年俸の上限を決めて、行き過ぎた給料を抑制しているとのこと、さらにビックリしたのは、何と日本の政治で変革しようとしている地方交付税(赤字の市や町に多く配分する制度)のように、黒字の球団から赤字の球団へ助成する制度を採用していることです。

 このように、あのアメリカでも何でも競争、競争では、長い目でみると弊害を残し、全体として、プロ野球の発展を阻害すると考えているのです。
 自由競争を放置すれば、ただ強いチームと弱いチーム、観客動員力のあるチームとそうでないチームの開き、格差が出てしまうことを予想して、出来る限り緊張感のあるバランスを常に考えているというのです。
 アメリカのプロ野球の人気の秘訣は、この経営者と選手会、そして何よりもファン(国民)の三者が一体となって取り組み、協力し合っている姿であり、これが成功の源となっているのです。

 日本のプロ野球界においてもすったもんだの末、パ・リーグに楽天という新チームが参入し、ロッテの快進撃で大いに盛り上がっています。
 これに比べ、セ・リーグは阪神・中日は頑張っているものの、巨人の低迷ぶりは目を覆うものがあり、プロ野球全体の足引っ張っているというのが実態です。
 これは、目先の損得ばかりを考え、年俸で有名選手を買いあさった結果であり、当然の報いだとお思います。

 アメリカのプロ野球の改革には、まずポリシー(理念)があって、その次にその理想に近づける方針があるのです。
 この理念と方針によって、5年後、いや10年後の目標を定め、それを具現化する施策があるのです。

 アメリカのこの改革を参考にして、日本のプロ野球界においても、ドラフト制度一つ取っても球団の利害だけでなく、将来大選手となる可能性のある金の卵を日本野球界の人財として育てるような長期的な視野に立って、思い切った改革案をファンの前に明らかにして欲しいものです。
 
 巨人の監督に誰がなるかという低次元の発想からそろそろ脱却して、「ファンあってのプロ野球である」ことを肝に命じて頂きたいと、野球をこよなく愛する一人として願ってやみません。

                               あきしか  博
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2005年08月29日

恩師逝く「白鳥蘆花(ろか)に入る」

またひとり、大事なひとを失ってしまいました。
お会いしてからもう40年近くなるでしょうか。
わたしの恩師である、西ヶ谷悟先生という方です。

 お盆明けの17日、静岡市のセレモニーホール静岡で、先生の告別式がしめやかに行われました。
 ご親戚はもちろん、先生と親交のあった方々が多数参集し、先生を悲しみの中で見送りました。

 まだ私が23〜24才の頃、青年団の研修会の講師としてご指導を受けて以来、政治・社会・経済などのあらゆる分野の識者として薫陶を頂きましたが、最も影響を受け、しかも他の先生方では代わりが出来ないほど先駆けていた、社会教育・コミュニティづくりの分野は、先生の独壇場と言っても言い過ぎではありませんでした。

 当時の公民館の運営テキスト・コミュニティづくりのマニュアルなど、静岡県の生涯学習・社会教育・青少年教育の指導書は、ほとんどと言っても良いほど、西ヶ谷先生の書かれたものだったのでした。

 その意味で、先生の果たした役割りと業績は、その道の人なら誰でも知っています。
特に、先生は長い間、全国津々浦々に講演に歩いていましたので、遠方からの弔電や供物が多く、生前の活躍が偲ばれました。

 私は、奥様から払いの膳での献杯の発声を頼まれ、一言言って欲しいと言われましたので、次のようなあいさつをし、先生の御霊の安られんことをお祈りしました。

 「私は只今ご紹介を頂きました秋鹿と申します。私は、先生の数多い弟子の一人で、私たちにとって、師と仰ぐ西ヶ谷先生との別れは、痛恨の極みであり、誠に残念でなりません。先生は、『生きた広辞苑』とでも言いますか、本当に色んなことを知っている、知識の宝庫のような方でした。私も困ったことや壁にぶち当たった時は、静岡の曲金の家を訪ねて、一時間くらい先生と話をしていると、ハッとヒントを得て、目先が明るくなるような経験を、何度もしております。これからは、私たちが先生の精神を受け継いで、頑張って行かなければならないと、責任を感じております。
 それでは、西ヶ谷先生のご冥福をお祈りしてここに献杯をいたします。」

 私にとりまして、西ヶ谷先生から人生の指針やリーダーとしてのあり方など、数え切れないほど、多くの「言葉」を教わりました。
 
 その中で特に私の生き方に影響を与えた言葉は、「白鳥蘆花に入る」というものです。
 白い水鳥が、白い花の咲く水草の中に入って行くと、姿が見えなくなりますが、よく見ると水草がざわざわと動いている。
 中国の古代の人々は、これをリーダー(指揮者)の理想的な姿として、この言葉を大切にしているそうです。
 つまり、真のリーダーは号令をかけたり、高い所にいるのではなく、大衆の中にあって姿は見えない。しかし、その人の思想や生き方は広く静かに広がって、多くの人に影響を与えるものだと言うものです。

 生涯学習が叫ばれてから、伴すると社会教育が忘れられがちですが、家庭教育・学校教育と並んで、この社会教育の充実なくして生涯学習の進展はないもの、と思っております。
 学校には卒業式がありますが、社会教育には卒業はなく、終わりはないのです。
先生は、「昔、勉強をした」という過去形ではダメで、「今、勉強している」という現在進行形でなくてはならない、とよく言っておられました。

 私は、西ヶ谷先生の足元にも及びませんが、「社会教育研究家」を自負しております。
西ヶ谷先生からバトンをしっかり受け継いで、今後も精進して行くつもりです。
 
 先生のご冥福を心よりお祈り致します。

              秋 鹿  博
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2005年08月23日

「たくましい子供は自然が好き」〜ボーイスカウトのファミリーキャンプ〜

 5年後の2010年に、ボーイスカウトの祭典である日本ジャンボリーが、朝霧高原で35年ぶりに開催することが決定しています。
 さらに翌年の2011年に、世界ジャンボリーが出来るか否かは、9月の世界ボーイスカウト会議で決まる予定です。

ボーイスカウトの特徴と良さを簡単に説明すると、
◎自分のことは自分ですること(自己責任)
◎みんなと仲良く、楽しく遊ぶこと(快活・友愛)
◎大自然のルールと知恵に学ぶこと(自然体験)
◎地域のために奉仕すること(ボランティア)
の心を育てるということになります。
 
 ただ残念なことに、子ども達を取り巻く、社会的・家庭的な環境が大きく変化して、ボーイスカウト組織の運営が難しい時代を迎えています。

 『自由』の意味を間違えてしまい、自己中心的な人たちが多くなってしまうと、集団やグループに所属するのが面倒と思いがちです。
 また、親達が子ども時代に、子供会やボーイスカウト等の団体活動を経験してないと、子ども達の加入への理解も薄れる傾向があります。

 しかし、意識するかしないかは別として、人間は社会をつくって生きているので、集団(グループ)と個人との関わり合いを抜きには生きてはいけません。

 どんなに時代が変わろうと、人と人の絆こそが大切であり、どんな立派な人でも、人間は一人では生きられないはずです。

 ボーイスカウトのような団体は、現在のような、人間関係が希薄な時代になればなるほど、本当に必要だと思いますが、これも押しつけにならないよう、『個』を大切にしながらそれぞれの『個』の集まった『集団』を、指導者が気をつける配慮が、今の時代には特に必要なのかな、と思います。

 今、私は同志の皆さんとボーイスカウトを再編しようと取り組んでいます。
富士宮市の市街地(浅間大社を中心にして)に、一つの団を結成しようとしています。

 先だって、朝霧のふもとっぱらで、1泊2日でボーイスカウト体験入隊、親と子のファミリーキャンプを行いました。

 12名の子供達と18人の大人(父母とスタッフ)で、うたとゲーム・キャンプファイヤー・紙鉄砲の工作・昔のあそび・そば打ち体験等、楽しいひとときを過ごしました。

 初めての子供達で心配していましたが、どうしてどうして、すぐに友達になり、リーダーの指導のもと、みんな良く頑張ってくれました。

 その日は、本当に有意義で楽しい一日でした。
秋 鹿  博
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2005年07月22日

「終戦記念日に思う」〜過去からの新しい出発〜

今年も本格的な夏がやって来ました。
毎年盛夏の8月15日の終戦記念日を迎えると、様々な事を考えさせられます。
特に今年は、戦後60年という大きな節目の年、そして、小泉総理の靖国神社参拝問題で、中国や韓国と外交上ギクシャクしている現状を考え合わせると、何か将来に対して不安を感じているのは私だけではないと思います。
今、私は靖国神社でと言いましたが、本当は歴史認識や領土問題が根底にあり、経済問題が背景にあって、日本を揺さぶる戦略として、靖国問題を反日運動の手段としているという見方もあります。

 いずれにせよ、日本は戦後60年、平和憲法の下で復興と繁栄を成し遂げ、自他共に「経済大国」と認められ世界有数の国になり、ODA(海外経済協力基金)の額においては、バブル経済崩壊後も常に世界各国でトップクラスの拠出をしていることは周知の通りです。
 しかし、いつも疑問に思っているのは、これだけ国際社会に貢献している割りには、日本への「評価や信頼」が決して高くないのはどうしてだろうか、と考えさせられます。
今回の国連常任理事国入りの問題でも、最近では一番の同盟国と思っていたアメリカにも反対を表明され、苦境に立たされています。
日本は決して「孤立」しているとは思いませんが、「理解」されていないのではないでしょうか。
結論を先に言えば、日本外交は「説明責任」を果たしていないということになります。
常任理事国の問題にしても、何の為に常任理事国を目指すのか、そのメッセージが伝わってきません。
これは近隣諸国との関係についても同じことが言えると思います。

 少し歴史を振り返ってみますと、第二次世界大戦の後、アメリカは「マーシャルプラン」を発表しました。
それまでは欧米列強が、アジアやアフリカなどの発展途上国や未開の国を武力によって支配し、搾取する植民地政策を取ってきました。
これによって貧しい国の人々は苦しんできましたが、このマーシャルプランは、「豊かな国は貧しい国を援助しなければならない。そして、民主主義を定着させ、世界平和を希求して行かなければならない。」というもので、アメリカの壮大で格調高い理念が示され、この精神が今日の「ODA」を生むキッカケとなったのです。
日本もこのマーシャルプランによって経済援助を受け、新しい国づくりで復興を成し遂げました。
敗戦という未曽有な不幸を経験しましたが、当時のアメリカに助けられた事は事実です。

今のアメリカには、このような世界の人々を唸らせる壮大な発想はありませんし、自国の利益を追い求めているとしか思えません。

 さて、本題に戻りますと、今、日本は自国をアピールする最大のチャンスにあるのではないでしょうか。
アメリカには出来ないことで日本に出来ることがあるはずです。

 それは唯一原爆を経験した日本から「戦争を止め、人類はみな家族であり、地球の生態系を取り戻そう!」と訴えることです。そして「地球環境宣言」を行い、京都議定書の実現を目指すのです。

その為に日本は世界に誇る「環境先端技術」を提供します。
常任理事国として、「自国の利害ではなく地球を救う」目的を達成するための国連改革を行います。

日本の常任理事国入りは、「今、自国の利害に囚われている時ではない!このまま地球環境が悪化すれば、国の存在どころか人類の破滅に繋がって行くことは必須である」と、全世界の人々にアピールしてはどうでしょうか。

 日本は戦後60年、唯一の被爆国として核兵器の廃絶と世界平和を訴えてきました。
また、自動車産業はじめ、あらゆる先端技術は今や日本の文化そのものであり、特に環境問題に対する研究開発は世界一と折り紙付きです。

 時代を担う子供達が、過去の歴史の負の部分を背負うのではなく、新時代・新未来への日本人としての誇りを持ち、夢とロマンを失わない生き方をして欲しいと思うのです。
そして、この意味で60回目の終戦記念日を日本人として新たなスタートの記念の日として、大切にしたいと願ってやみません。

                                 秋 鹿  博

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2005年07月06日

美しい自然は私たちの心の中にある

 先日、トレッキングの仲間の皆さんと北アルプスの白馬岳の麓、「栂池自然園」を訪れた。

 早朝5時に出発し、約5時間バスに揺られて、と聞いた時は正直余り気が進まなかった。

 ところが、梅雨の晴れ間とでも言うのでしょうか、天候に恵まれた上に、高原の遅い春と初夏が一緒になって、山桜と水芭蕉をはじめ、色とりどりの草花が競うように咲き乱れ、天国か極楽浄土へでも来たような美しさに、ただただ感動し、バスの疲れも吹き飛んでしまった。

 この信州小谷村は、長野県の最北端で山を越せば新潟県糸魚川市で、正に秘境の地である。
 人口4千人の小さな村ではあるが、北アルプスの雄大な自然とロケーションをフルに生かしたスポーツリゾート地として名高い。
 冬はスキーで賑わい、春・夏・秋は山岳レジャーと源泉の宝庫として一年を通して観光客が絶えない。
 しかし、最近はスキー客の減少から、むしろ女性や中高年の自然散策やトレッキング客の宣伝に力を入れているそうだ。
 私達が訪れたのも日曜日だった為、ハイカーやウォーカーなど観光客でいっぱいだった。

 何と言っても栂池高原の魅力は、登山駅からゴンドラで約30分、そしてロープウェイに乗り換えて約10分と、車はシャットアウト。
 お花畑のある自然園には他のルートの選択はなく、不便と言えばこの上ない。
 今日の土木技術からすれば、簡単に出来るはずの道路を造らず、この自然を守る姿勢が今日の成功をもたらしたことは間違いない。
 そして、村は振興公社を組織して、レンジャーやインストラクター・学芸員などの森林・自然専門家と村民のボランティアによる知恵と工夫で栂池高原を管理している。

 私は早速、管理事務所を尋ねて、高原を維持するための苦労話をお伺いした。
登山者や観光客のモラルは良いが、少しでも努力を怠れば荒れてしまう。
 
 それは、大自然には「おきて」があり、その猛威との戦いは想像に絶する。
一度人が山に入ったら、最後まで人為力な努力をしなければならないと言っていた。
私は話を聞きながら、富士山の現状と比較しながら心を新たにしていた。

 富士山は余りにも恵まれ、便利になり過ぎている。不便や苦労をしなければ自然の尊さも価値も解らないのではないか。
 栂池公園は、「栂池の自然を愛し、大切にする」ことを理解して来場してもらうために努力し取り組んでいるから、理解した人たちで賑わうのだ。

 私は観光協会のキャッチフレーズを、「富士山のある町」から「富士山を仰ぐ町」にしようと提唱した。

 霊峰富士を聖地として仰ぎ、富士山の懐に抱かれ、四季の自然に癒しの心をもって親しむ人が多ければ、「富士山はゴミの山」と酷評されることもなくなり、世界遺産に登録されることは必然であると考えたからだ。

 なぜなら富士山は日本人の心のふるさとであり、世界の人々の憧れの山であり、すでに世界遺産の資格も実力もある。
 たまたま心ない人々のモラルの低下による現象を招いているに過ぎない。

 その意味で、そろそろ富士山クリーン作戦の戦略を見直し、徹底した「捨てさせない」「元から正す」運動が必要ではないか、美しい自然は私たちのモラルにあり、心の中にあると考えながら栂池公園から帰路の旅についた。
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2005年06月09日

道具とは使うもの

 私たち子供の頃は、鉛筆を削る為、みんな筆入れ箱にナイフが入っていました。
私もヒモの付いたスポーツマンナイフを愛用していて、ズボンのベルトから下げていました。もちろん学校へも持って行きましたし、先生から特別の注意も受けませんでした。

 何に使ったかって?それは、色んな使い方がありましたね。
鉛筆削りなんか、お茶のこ采々。紙やヒモを切ったり、工作に欠かせない小道具で、本当に便利でした。
山や野原に行くと、チャンバラごっこの木の枝を取ってきたり、竹を取ってきては竹とんぼづくり。ドンドン焼きの時は、だんごをさす三つ又の棒を削ったりしました。
川へ行くと、魚を釣っては腹をさき焼いて食べたりで、毎日がボーイスカウトの様な生活ぶりでした。

 少なくともこのナイフをケンカに使ったり、人を傷つけたりすることに使う等は考えたこともありませんでした。
ナイフはあくまでもナイフという道具として使うことは当然で、道具は使って初めて生かされるのです。人間が創造して創り出したものは、使う方が責任を持つのは当たり前ですよね。

 ところで、最近の学校では「危ない物は持たせない」「持ち込ませない」そうですね。子供達に危険なもの、危害を与えそうな物はできるだけ排除して、安全を守っているそうです。今の社会情勢を考えるとしかたがない一面もあると思います。
 ただ、果たして本当にこれで良いのでしょうか。
 自らの判断と責任で自分を守ることは、子供達が小学生から中学生に成長する過程の中で身につけないと、大人になってからでは身に付かないと思うのです。
学校が社会の縮図ととらえるならば、家庭や地域社会などで、少しずつ道具の使い方を正しく教える機会をつくる事も大切なのではないでしょうか。

 ナイフの使い方も、安全な使い方と危ない使い方を区別する知恵と工夫が必要です。
そうでないと、みんなマニュアルがないと何も出来ない人間になってしまうのではないでしょうか。

 人間の体も全く無菌ではなく、ばい菌が入ってきてもそれと戦い、打ち勝つ免疫状態が健康体を保っているのですね。
ですから、多少のキズや打撲位は経験して、「あぁ、これはこの程度で治るんだー」と、経験を積むことも大切なのではと考えます。
そして、アクシデントに遭遇した時、どうしたら良いか自分で判断することをしっかりと教え、「自分のことは自分でする」ことをしっかり身に付けないと、大人になってから困ると思います。

 いずれにしても、子供達が少しのことではへこたれない「たくましい青少年」になってほしいのです。その為には、「道具に使われるのではなく、道具は使うもの!」と、大人がもっとしっかりして見本を示さなくてはなりません。

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2005年05月16日

少しは面白くなってきたプロ野球

 たかが野球、されど野球。
"雨降って地固まる"という言葉がありますね。
アクシデントはあっても、結果としてまぁまぁ丸くおさまった時に使うようです。

 今年のプロ野球もこれに近いような現象が起きているように思います。
オリックスと近鉄というライバルが合併して、一リーグ制だ、二リーグ制だ、とゴタゴタし、あげくの果てにはヤクルトの古田捕手が会長を務める選手会が、試合をボイコットするストまで実行して、大騒ぎとなりました。

 こんな中で、ホリエモンの率いる'ライブドア'と、'楽天'が新チーム参入に名乗りを上げ、さんざんマスコミを賑わせ、結果として楽天に軍配があがって一件落着。
その'楽天'人気はあるものの、予想通り実力は今いちで、成績はすでに8勝33敗。しかし、どう考えても今年は力不足でもしょうがないですね。

 これに対し、恥ずかしいのは巨人です。
あれだけ年俸の高い選手を抱えながら、楽天と同じ最下位を低迷して、よほどの奇跡、ピッチャーの救世主でも現れない限り、今年の優勝は無理だろうと、もうネット裏の評論家はささやいているとか・・・。

 ところが、オーナー会と選手会との交渉の過程で生まれた申し子のような「交流試合」が、ここへ来て盛り上がっていますね。
幸いというか、ラッキーというか、たまたまというか、この交流試合で巨人の成績が少しづつではあるけれど、キッカケを掴んだようです。

 私は堀内監督が辞めない限りダメだと思っていましたが、最近は強情を張らず、やっとかたくなな心を入れ替えた(?)かに見えます。
今までは、最初のスターティングメンバーを馬鹿の一つのように絶対替えなかった。
ほとんど打てないと思われるキャプ(外野手)をかたくなに替えないで、チャンスをつぶしてきました。
その逆で、好調の投手を途中で替えて、勝っていた試合を何度失敗したことか・・・。
これによって、なんぼ人の良い巨人ファンも呆れて、球場へ行く回数が少なくなってしまったのです。当然のことですよね。

 巨人ファンなら待ちに待っていた、清水外野手を起用したらどうでしょうか。
急に巨人の一、二番コンビに機動力がついたようになったではありませんか。

 過去の巨人の9連覇も、王・長島の大選手だけでなく、柴田・土井・高田といった足が速く、小細工のきくいぶし銀のような名選手がいたからこそ、ドカーンといった一発が効いたのですね。

 ホームランの魅力は確かに魅力ではありますが、ともすれば大味になって、きめ細かなプレーがだんだん影をひそめてしまうようです。
小兵ながら、バンドやヒット・エンド・ランや盗塁によって相手のチームの守りをかき乱す魅力も野球という競技の面白さではないでしょうか。

 この機動力に優れているチームが、セ・リーグでは中日であり阪神なのです。
おそらく今年のセ・リーグのペナントレースは、この二チームを中心に展開することは間違いないでしょう。

 評論家のようなことを言ってすみません。
 でも、やっぱり野球って面白いですよね。

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